清・『厀嘯文集・訳本』編者の言葉<br><br>現代の社会生活において、鉤章棘句で、難解晦渋な文言文に接することが必要となる事例はそれほど多くない。古書は先輩たちの多くの知恵と経験を隠していることを知るべきだ。古書を読まないことは外国語を学ばないことと同じで、自己閉鎖の道であり、滑稽で愚かな行為であり、本当に嘆かわしく、惜しまれることである。<br>文言文は先秦の口語を基礎として形成されたもので、時の移り変わりとともに、後世の口語はだんだんと文言文と距離を開けていった。それは中華伝統文化の精髄であり、華夏伝統文化の巨大な宝庫であり、漢民族の五千年の伝承を続ける強い原動力である。<br>編纂者(張漢陽)が鵠厳公(九世祖)などの先祖が書いた書籍を手にしたとき、いつもこう感慨している。「これは輝かしい星空を漫遊することであり、美への巡礼であり、心の充電であり、崇高で貴重な享受である!耳目一新で、さらには目から鱗のような感覚が、常に心に残っている……」<br>文章の字里行間には、鵠厳公の鯤鵬のような大志が十分に表れており、満ち満ちた希望と、国家や国民に対する無限の愛情が含まれている。『論語』の公子荆の章「富者可以為法」を参考にすると、「斉景公の一文を読めば、貧者は自ら奮起できる。金を惜しむ者は義士になれず、命を惜しむ者は忠臣になれない……」つまり、「公子荆は貧困な時、金銭はもう十分であると言い、富に対する満足を表した。彼は貧しい生活に安んじることができると同時に、富を蓄えることもできる。満足している者は常に楽しいという心境を極めた。これは裕福な家庭の人が学び、まねるに値することである。斉桓公は貧困な時に更に奮発し、まねるに値する手本である……」この黄鐘大呂のような示唆は、雲を払って日が見えるように、はっと悟るもので、人の三観を築き上げる。 書籍には豊富な哲学、歴史、文学など多方面の内容が含まれている。文言文を学ぶことで、古人の生活環境、思想境地(観念)、価値体系および文化伝統に深く入り込むことができ、それによってより良く華夏民族の精神を伝承し、文化伝承に対する自信を強化し、人々の本国文化の根源に対する理解を育て、中国伝統文化の現代社会における伝承と発展を促進することができる。例えば、『論語』『孟子』といった古典的な著作には儒家の思想と知恵が含まれている。『荘子』には道家の哲学的な見解が満ちており、『墨子』は法家の治国理念を表しており、これらはすべて伝統文化の宝であり、文言文はこれらの思想を伝承する重要な担体である。<br>今回編集して出版に至った『厀嘯文集・訳本』は、鵠厳公(諱は叔珽)の思想、知恵及び志向を再現している。『厀嘯文集・古楽考』にあるように、『礼記』の記載によれば、「君子が音楽を聴くとき、ただその鏗鏘とした音だけを聴くのではなく、そこにはそれと合致するところもある」とされている。では、何と合致すべきなのか。古代と合致すべきなのか。古代と合致しようと思っても、ただ音楽創作後の痕跡に拘泥するだけではなく、音楽創作前の心境を探究することが大切である。音楽創作の心境はどこにあるのか。黄帝の言葉を見ると、「吾は人の声で演奏し、天で検証し、礼義で推進し、太清で確立する。四季が交替して興り、万物が循環して生長する」とある。この数言によって、上古の音楽創作の心境も大体見えてくる。虞舜や周の論じたことでも、そうではないだろうか。虞舜の朝廷では夔に音楽を掌管させ、貴族の子弟を教え、「正直で温和であり、寛厚で荘重であり、剛直で暴虐ではなく、簡易で傲慢ではない」とされた。詩は心志を表現するもので、歌は言葉を伸ばすもので、音声は歌唱に基づき、音律は調和する。八音が調和し、互いに秩序を侵すことがなく、神と人とがそれによって調和する。 『厀嘯文集・五経無真字解』ではまた、「字の意味を知るには、六書(この『六書』という名称は見慣れず、全く知らない。)を通じて文字創制の根源を理解する必要がある。読書の方法としては、時代を考量して確かな不変の理解を得る必要がある。『五経には「真」字がない』ということで疑問を呈し難癖をつける人がいるが、私は「四書にもない」と言う。古代にはなくて現在にある字は多く、漢代の人の書籍から出てきたそのような字は少ないだろうか。五経と四書には「誠」字はあるが「真」字はないが、恐らく「誠」字が「真」字の意味であろう」と指摘されている。このような浅い理論や常識は、古稀の年になってもなお読書が好きな老人ですら触れたことがなく、ましてやひたすらスマートフォンに夢中になっている若者たちにとっては言うまでもない。この二つの文章を読めば、人は目から鱗のように悟ることができる。もし『厀嘯文集・訳本』の八十九の文章を全部読み、その精神を理解できれば、きっと大きな利益を得ることができ、一生涯それを享受できる程度のもので、軽んじることはできない。<br>先祖の鯤鵬のような大志を弘揚し、その思想と哲理を伝播し、より多くの人に文言文の魅力を理解してもらうために、清代の視履堂の原版の木版印刷の『厀嘯文集』を掲載すると同時に、その文章を分かりやすい白話文に翻訳し、『厀嘯文集・訳本』と名付けた。ご存じのように、現在は「武大図書館」(上下巻)にしか所蔵されておらず、知人の力添えを得て、数名の指導者の承認を経て、専門家の指導(監督)のもとでやっとその本を見ることができたのである。数年間にわたる私たち二人の共働により、白話文の註釈付きの『厀嘯文集・訳本』を今、広大な読者の皆さんに捧げることができた。ぜひお好きになっていただけることを願っている。 歴史的な原因により、鵠厳公が書かれた『厀嘯文集』は、編纂の十数年間にわたる全国各地での探し求めにもかかわらず、手に入れたこのセットの『厀嘯文集』には八つの文章が欠けている。それらは「文所以載道論」「補貴」「過採石磯弔李白仿九辮騷二首」「外丙論」「舜不告而娶論」「象忸怩論」「撥庚斯反命書」「弔逸朱張全傳」である。これはこの編纂作業における最大の残念なことであり、将来、仁者がこれを補うことができることを願っている。<br><br> 甲辰年孟秋 十世孫国麗<br><br><br><br>