据史料记载,开封铁塔的前身是座木塔,位于开宝寺福胜院内,始建于太平兴国七年,即公元982年,建成于宋太宗端拱二年,谓之福胜塔,宋真宗大中祥符六年,“有金光出相轮,车驾临幸,舍利乃见,因赐名灵感塔”,是宋太宗用来供奉吴越国进贡的阿育王佛舍利用的。<br> <h3> </h3><h3> </h3><h3> 铁塔的建造开始于北宋仁宗皇佑元年(1049年),但何时落成,至今尚未发现有确切记载。这是铁塔历史上的一大悬案。据河南大学教授魏千志考证,神宗熙宁四年(1071年)王惯撰写一部《北道刊误志》,此书对京师(开封)名胜,记载颇丰,而唯独缄口不言开宝寺塔。</h3><h3> 北宋神宗熙宁五年(1072年)十月,日本国僧侣成寻曾在开宝寺福胜院等处参观礼拜,其记述当时的情景说,原藏在灵感木塔下的佛舍利,现“宿置”于“一间小殿”中。建塔的目的就是奉藏舍利,舍利置于“小殿”中。说明新塔尚未建成。又据魏千志教授躬身登临铁塔考查,塔身的第三层砖上出现治平四年(1067年,英宗在位的最后一年</h3><h3>)的年号,塔顶发现“熙宁”(神宗第一个年号)字样的琉璃砖。再参照日僧成寻《参天台五台山记》的有关记载,这就说明,铁塔最后的落成时间,大概在神宗熙宁年间的后期,亦即1073年至1077年之间。</h3><h3> 铁塔从建造到竣工,前后总共经过近30年的时间。但这仅是魏千志教授的一家之言,铁塔确切的落成时间,仍尚有待于硕学博闻之士释疑解难。</h3><h3> 历经宋、金、元、明、清5个朝代以及民国时期漫长岁月,遭受地震43次,冰雹1O次,风灾19次,河患6次,雨患17次,其间曾数次增补葺修。明洪武二十九年(1396年),周王重修,塔内嵌置黄琉璃阿弥陀佛48尊,两旁刻字足证。</h3><h3> 嘉靖三十三年(1554年),周王又增修,有碑记证明。又据近人关百益(曾著《铁塔》和龙非了(曾著《铁塔考察记》)考证,在塔身上数层的琉璃花纹砖面上周围,发现有明洪武二十九年仲夏、正德七年(1512年)十二月、嘉靖八年(1529年)六月、嘉靖三十二年(1553年)十二月、嘉靖三十三年(1554年)三月及六月、万历五年(1577年)四月及五月、万历六年(1578年)四月、万历十八年年(1590年)十一月、清乾隆三十八年(1773年)夏四月等字样。</h3><h3> 建国后1957年重修铁塔时,又发现塔顶层的铜宝珠下的磐石上,嵌有清康熙七年(1668年)的石刻,均可证明在这些年代中,对铁塔重修或增添葺修的事实,其中以明洪武二十九年(1396年)一次的重修为最重要。此外还有,民国十年(1921年)开封县知事丁康保奉母命补修,民国二十三年(1934年)河南省佛学院又募捐补修一次。</h3><h3> 1938年6月5日,侵华日军以铁塔为目标发动猛烈的炮火袭击,塔身中弹七、八十发,塔身北侧遍体鳞伤,第八、九层被打穿了外壁,留下了2个2米大的深洞,而铁塔渗透着开封人的铮铮铁骨,像一位威武不屈的战士巍然屹立在古城大地。</h3><h3> 1953年7月,省文物局把维修铁塔列为中南的名胜古迹重点修缮工程。</h3><h3> 1954年,组织工程技术人员和考古人员对铁塔进行全面勘察设计。</h3><h3> 1956年,成立了由市政府建设科工程师田延寿等人组成的铁塔修复委员会,由中央文化部和省计划委员会拨21万元专款,本着“修旧如旧”的原则,制定了维修方案。</h3><h3> 1957年6月11日开始动工,到10月底全部修复竣工。同时还安装了104个铁铸风铃,增装了洞门铁栏和避雷针。千年宝塔以崭新的面貌展现在世人面前。</h3> <h3>日本語:</h3><h3> 史料によれば、開封鉄塔の前身は開宝寺福勝院内にあった木塔で、太平興国七年に始まり、982年、宋太宗端きょう二年に建てられた福勝塔、宋真宗大中祥符六年、「有金光出相輪、車駕臨幸、舎利乃見、称名霊感塔」は、宋太宗が呉越国に奉納した阿育王仏舎に利用されたと記されている。鉄塔の建設は北宋の仁宗皇佑元年(1049年)に始まったが、いつ落成したのか、いまだ確実な記録は見つかっていない。これは鉄塔の歴史上の一大懸案である。河南大学教授の魏千志氏の考証によると、神宗煕寧四年(1071年)に王慣が書いた『北道刊誤志』は、京師(開封)の名所には、かなり詳細に記載されているが、開宝寺塔のことをちっとも口にしなかった。北宋の神宗煕寧五年(1072年)10月、日本の僧成尋は開宝寺の福勝院などで礼拝を見学していたが、その当時の様子によると、元の木塔である霊感塔の下に仏舎利を隠されており、現在は「宿置」として「小殿」に置かれているという。塔を建てる目的は、舎利を奉蔵し、舎利を「小殿」に置くことである。新しい塔はまだ完成していないと説明する。魏千志教授が鉄塔の考査に臨んだところによると、塔の第三階の煉瓦に治平四年(1067年、英宗の最後の年)の年号があり、塔の頂には「煕寧」(神宗初の年号)の文字の瑠璃れんががあった。また,日僧成尋「参天台五台山記」の記述を参照すると,鉄塔の最後の落成時期は,おそらく神宗煕寧年間の後期,すなわち1073年から1077年の間であったと考えられる。鉄塔は建造から竣工まで、前後合わせて30年近くが経過している。しかし、これは魏千志教授の私見にすぎず、鉄塔の正確な落成時期は、まだ学識の博識の士に疑問を解く必要があった。</h3><h3> 宋、金、元、明、清という5つの王朝と民国の時代の長い年月を経て、地震は43回、雹は1 O回、風害は19回、水害は6回、雨患は17回見舞われたが、その間に数回の増補と修理もあった。明洪武二十九年(1396年)、周王が改修し、塔内には黄瑠璃阿弥陀仏48体がはめ込まれ、両側に字が刻まれていることが足証となっている。嘉靖三十三年(1554年)、周王はまた修理し、碑の証明がある。また、近人の関百益(“鉄塔”と龍非了(“鉄塔考察記”)の考証によると、塔の上の数層の瑠璃模様の煉瓦面の周りには、明洪武二十九年真夏、正徳七年(1512年)十二月、嘉靖八年六月、嘉靖三十二年(1553年)十二月、嘉靖三十三年(1554年)三月と六月、万暦五年四月、万暦六年(1578年)四月、万暦十八年十一月、清乾隆三十八年(1773年)夏四月などの文字が発見された。建国後1957年に鉄塔が再建された時、塔の最上階の銅の宝珠の下の岩に、清康熙七年(1668年)の石刻が埋め込まれていることを発見し、これらの年代において、鉄塔の修理または増修の事実を証明することができ、その中で明洪武二十九年(1396年)に一度の再建が最も重要であることが証明された。そのほか、民国十年(1921年)に開封県知事の丁康保奉母命を補修し、民国二十三年(1934年)に河南省仏学院で再度募金を補修した。</h3><h3> 1938年6月5日、日本軍は鉄塔を標的に猛烈な砲火を浴び、塔身は七、八十発、塔身の北側はボロボロ、第八、九階は外壁を貫かれ、二メートルの深さの穴が残ったが、鉄塔は巍然と戦士のように今も堂々と古都開封の大地にそびえ立っていた。</h3><h3> 1953年7月、省文書局は鉄塔を中南の名所旧跡の重点修繕工事に指定した。1954年(昭和29年)には土木技術者や考古学者が鉄塔の全面的な調査設計を行った。1956年(昭和31年)には、中央文化省·省計画委員会から21万元を充当し、「1957年6月11日に復元の工事に着工を開始し,10月末までに全部復旧し完成した。同時に104個の鉄鋳風鈴を取り付け、洞門鉄欄と避雷針を増装した。千年の塔は新しい姿で世間の前に現れている。</h3> 精美的佛像造型 <div>铁塔外壁的狮子、佛像、飞天等,诉说着不尽的佛缘。</div>様々な模様が施されているレンガで鮮やかに覆われている。 巧夺天工 一柱擎天 倒提铁笔向天题 被日军炮击毁坏的铁塔 日本軍に砲撃されてボロボロになった。 国宝 国宝 国の重要文化財