『蘊承軒•国際文化芸術窓口』連載之七十四🗞中日新報

蘊承軒

<p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">蘊承軒•国際文化芸術窓口』連載之七十四🗞中日新報​</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">  看松園草稿展 聽上村淳之先生講松園故事</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">     ——上村先生講演会in松伯美術館</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">&nbsp; &nbsp;9月7日下午我與幾位友人一同去拜聽上村淳之先生在松伯美術館的講演。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 上村先生先從他座位后面的松園的作品《焰》制作開始講起。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 「畫怨霊(怨念),對於怨念題材的研究不是很單一的,這很符合松園的一貫作風。原本存在于那里的女性,我們不知道,不,是我,我不知道的女性的妒怨,我相信(松園)真的相當下功夫研究了。因此這也是她對相關的題材都深入研究,並且用於創作的證明。松園絵制這幅作品后,很久沒有動筆作畫。竭盡全力的畫成這幅作品,然後自己要表達什麼?她自我深思時,有些迷失困惑了。松園曾經在隨筆里也寫道她自己也不知道自己為什麼畫了那樣的世界(怨念的世界),這不是她嫌麻煩不想解說,這張作品讓我們感知到當時在她內心深處有著她自己也說不清楚的困惑吧。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">  為了畫怨霊,該怎麼畫呢?松園就去拜訪日本京都傳統金剛能的傳人求教,知在能的世界里,白目上描金泥表現『嫉妬』。她本人完全沒認為自己是有靈感應的人。我想是像這樣有了對於怨霊進行深入広范的研究,這幅《焰》才畫成功。因為這一幅作品的執著花費了大量的心力,緊接著去已無適合制作下一幅畫作心力和心境。約五年左右歇筆沒有畫大幅作品。」</h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">&nbsp; &nbsp; 想著擺脫畫怨霊時的心境,真正想表現的是理想的女性形象——表現理想的美好的,不能停滯在怨霊題材。於是歇筆幾年后,著手畫了《楊貴妃》。而這張畫淳之先生和松篁先生還有松園先生三代間還有個逸話:一天淳之先生看《楊貴妃》草稿畫的背景簾子的竹影與完成的作品竹的画風不同,於是跟松篁先生和松園先生指出來,被二人笑著很是表揚了一下「看的挺仔細啊」被告知是松園先生拜託兒子松篁先生給畫的。(只有淳之先生看出來了,不說別人都不知道)。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">・・・</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 「松園去世前最後吃的是冰淇淋。那是沒有冰箱的時代,我的姐姐從京都過來,與我兩人一同互相換班把冰淇淋運來,吊到井里保冷…松園晚年生活很開心,像一般人家的奶奶一樣,我想要零花錢時,一般時候我不需要零花錢,是一次我瞞著父母報名的橄欖球集訓需要錢,跟松園奶奶說給點錢吧,松園問“要多少啊?”我說:“1500日元”。松園就直接給了我5000日元・・・關於松園都是這樣的特別令人懷念的記憶。」</h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">  講演会後初次來聽演講的川西桑問上村先生:——剛剛講演提問時,我很想問的是:您畫家連續三代,這是很少有的,與一般的奶奶一樣溫和,從來不強迫您做什麼,那麼您開始畫畫的契機是什麼呢呢?</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">上村先生:——嗯,偶然、在旅館的玄関看到小磯良平的作品,發現畫可以畫得這麼漂亮,我也要畫這麼漂亮的畫!</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">川西桑:——那時您多大?</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">上村先生:———十九〜二十歳。那時奶奶已經去世了。我畫畫被反對,當時日本經濟不景氣,畫家生活很窘困。於是我學化學專業,當時很熱門。母親強令我大学向化学方向努力,特別查到文部省特別設立的與我一樣學習方向的学校,小学校里沒有国語、歴史等學科,每天只學算数和理科,小学六年級時正是戦争時期,學校卻有英語課。在這樣的學校,放學回家的電車里讀英文書時,被旁邊座位的老爺爺怒吼:「你們幹嘛呢?咋就不好好學習日本本國的東西呢!」&nbsp;</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">完全不同於繪畫的道路,是偏門教育吧!好與壞我不十分明白,或許一直走下去,我會選擇了與現在完全不同的工作,或許成果更好……當然,也或許更糟(笑)。真的不知道,只是首先父母反對,絕對的反對。主要可能是喜歡看松園畫畫,大概從那時就不可以了吧(笑)</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 上村先生說到現在的年輕人太忙了,對畫畫的執著心不夠。談到上村先生現在的畫畫心境時他說,「說真的,自己是什麼樣的心境,心境的不同決定著能不能畫出深度世界的作畫。由自己的想法決定。」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 勵志傳承恩師上村淳之先生的教誨,堅定了以自己的真誠和執著畫「好畫」的信心和決心。講演會後,我又帶領大家靜靜的去與松園的草稿作品對話。</h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">【日本語】現在開催中の展覧会『下絵と素描から知る上村松園~絵師としての気概~』(10月6日まで)の会場である奈良の松伯美術館で、9月7日(土)午後から日本画家で上村松園先生のお孫さんの上村淳之先生が講演会を開かれるとの事で、私は蘊承軒大阪画院の生徒達と拝聴に伺いました。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 会場に集まった多くの人を前に、展示された数々の下絵を見回しながら、敦之先生はまず上村松園先生の制作姿勢について語り始めました。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">「こちらに『焔』という絵の下絵があります。怨霊(生霊)と化した女性の姿を描いた絵なのですが、その『怨霊』というものに対する勉強の仕方が、一筋縄ではなかった。その事について、僕は松園らしいなぁとつくづく思います」「女性が元々心の奥底に持っているもの・・・僕には解らない、僕ら男性には絶対に解らない、女性の怨みや妬みというか、そういうものを随分勉強したんやなぁと思いますね」「松園は絵を描く時に、その絵の題材についてあらゆる角度から深く追求していった。その証として、その結果として、ようやく絵が出来上がるという人でした」「実は松園はこの絵を完成してから、暫くは自分の絵を描けなくなった。一所懸命にこの絵を描き上げた後、自分がこの絵で何を描きたかったのかと考えてみると意味が解らなくなってしまった」「(随筆の中でも)何故あの時にあのような壮絶な世界を描いたのか、自分でもよく解らないと書いているけれども、僕には松園は自身でも説明できないような心の最も深い所で、大きな悩みを抱えていたのかなと逆に感じられた作品でもあります」</h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">更に淳之先生は、当時の松園先生が『焔』の絵を描く為に様々な勉強をしたエピソードを語ってくださいました。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">「『怨霊』というものを描くのにどうしたら良いのか。能も観に行った。すると舞台で登場人物の目元がキラッと何度か光るのに気が付いた。金剛流の家元にその話をしたところ、能では白目に金泥を入れた面は『嫉妬』の表現に使うのだと教えてくれた。それが絵にも生かされてます。」「自分に霊感があるなどとは本人は思っていないから、『怨霊』や『生霊』について深く広く研究した。その努力があって、あの絵が描けたのだと思います」「あの絵を描く執念が凄まじくて、それにエネルギーを使いすぎたのだと思います。その方向に嵌りすぎて、その世界に気持ちがのめり込みすぎて、次の絵が描けなくなってしまった。だから5年程大作を描くのを休んでおりました。その心境から抜けられなくなってしまったからです。」「その心境のままでは絵が描けない。自分が描きたい真の理想の女性像があるのに、あそこまで情念の世界を描いてしまったら次がやりにくい。良い気持ちで良い絵を描きたい為に大作を描くのを何年も休んで、そして次に描いたのは『楊貴妃』でした。この楊貴妃・・・この人、何も深いこと考えてないでしょ?(会場の人々から笑い声)』</h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">この『楊貴妃』の絵には他にも淳之先生と、お父様でやはり著名な日本画家であられた松篁先生、そして松園先生との秘密のエピソードもありました。ある日淳之先生が『楊貴妃』の下絵に描かれた背景の簾に写る竹と本画に描かれた竹の画風の違いに気が付き、それを松篁先生と松園先生に指摘したところ「よう見たなぁ」と笑って褒められたそうです。そして松園先生に頼まれて松篁先生が竹を描いた事を教えてくれたそうです。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">「僕にとっては、どこにでもいる『孫に優しい普通のお婆ちゃん』でした」と淳之先生は、お話の中で何度も松園先生について語っておられました。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">親に内緒でラグビーを練習していた学生時代の淳之先生は、ラグビーの合宿などでお金が必要になると、松園先生の所に行ってお小遣いをお願いしたそうです。「(金額は)どれほどや?」という松園先生に「1500円」と言うと5000円をくれた事など、本当に懐かしい思い出だそうです。(ここでも会場から笑い声)</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">松園先生が人生の最後に口にしたのはアイスクリームだったそうです。段々と食が細くなっていった松園先生はアイスクリームなら何とか食べられたそうで、淳之先生とお姉さまの二人が交代でアイスクリームを運び、井戸に吊るして冷やしていたということでした。</h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">講演会終了後、私は生徒を連れて控室にご挨拶に伺いました。今回初めて上村先生の講演会を拝聴した川西さんが先生に質問しました。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">川西さん:「講演を拝聴して、是非お聞きしたい事がありました。世界的にも三代続く画家の家系というのは大変珍しいと思うのですが・・・・お話の中では松園先生は淳之先生にとって優しいお婆様でしかなく、画家になる事を押し付けられたという事は全く無かったようですが、では淳之先生が絵を描こう、画家になろうと思った切っ掛けは何だったのですか?」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">上村先生:「偶然、下宿先の玄関に小磯良平の女性のデッサンが掛かっていたのを観て『女性はこんなに綺麗なのか』『こんなに綺麗に女性を描けるのか』『描きたい』と思ったのが切っ掛けです」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">川西さん:「それはお幾つの時ですか?」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">上村先生:「19歳か、20歳くらいの時やね。」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">川西さん:「それはお婆様が亡くなられた後からの事だったのですね。」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">上村先生:「そう。僕が絵の道に入ることは、母親から大反対されてましたから。」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">その頃の日本は景気が悪く、絵描きとして生活するのは大変な事でした。それで上村先生は化学の道を目指したそうです。そもそも科学系の大学に上村先生を行かせるべく、先生のお母様が色々と調べて、文部省が作った特別な小学校に入れたそうです。小学校なのに国語や歴史などの教科はなく、毎日算数や理科ばかり。戦争真っ只中の6年生の時にも英語の授業があったそうです。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">「学校から皆で電車に乗って帰るんやけど、そこで英語の本を読んでいたら、隣のおじさんに『お前何しとんねっ!!ちゃんと日本の事を勉強せんかいっ!!』とえらい怒られた」「まぁ、偏った教育やな。それが良く出たのか悪く出たのかわかりません。今のような状態ではなく、そのままいったらもっと違う仕事を選んでいて、世の中にとってもっと良い事をしていたのかもしれません。或いはもっと悪い事をしていたかもしれません(笑)」「わからへんけど、まずは親が絵描きになる事を反対、絶対反対でした。」上村先生は「小さな頃から松園さんが絵を描いてるのを観るのが大好きやった。絵を描くのも大好きやった。・・・・ああ、あの頃からいかんかったなぁ」と優しく笑っておられました。 </h3> <p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">上村先生は現在の若者たちが忙しい過ぎて、絵を描く事に対しての執念が足りないとおっしゃられました。絵を描く事について、上村先生は次のように語られました。「ほんまに言うたら、画家本人がどういう心境であるか・・・その心境の深い世界を描けるかどうか、です。腕は関係なく、自分の思いにあります。」</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;"> 恩師上村淳之先生の教えを受け継ぎ、良い絵を描く為に、今よりも更に真心と執念を持って頑張って行きたいとの思いを固めた私は、会場に掛かる松園先生の下絵と再度静かに対話しました。</h3><p style="font-family: -webkit-standard; white-space: normal; -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.301961); -webkit-text-size-adjust: auto;">執筆者:李留雁</h3>